※この話はシリーズ本編のストーリーを中心に構成しています。登場する人物・団体・会社名等は創作上のものです。実在の人物・団体とは関係ありません。
■ 証人欄
十月の初め、サクラとヒロが二人揃って事務所に来た。手には一枚の用紙。婚姻届だった。
「あの、折り入ってお願いがありまして」
ヒロが差し出した用紙には、まだ空欄が二つ残っていた。証人欄だった。
「証人、コーキさんとケイイチロウさんに、お願いできませんか」
「俺たちでいいのか。親族に頼むものじゃないのか」
「親族に頼まなければならない決まりはないんです。18歳以上なら、友人でも大丈夫って調べました」とサクラ。「それに……ここが、私たちにとって、一番『始まりの場所』だから」
奥から出てきたケイイチロウが、黙って用紙を受け取った。ペン立てから万年筆を選び、ゆっくりと証人欄に名前を書いていく。
「光栄だ」
短く、それだけ言った。

■ 十月九日
婚姻届の提出日は、10月9日に決まった。二人の仕事と、その後の名義変更手続きの日程から逆算した結果らしい。
「大安とか、そういうのにはこだわらなかったのか」ヒロに聞くと、彼は首を振った。
「調べたら、いい日は選びたい派と、こだわらない派、半々くらいで。僕らは、無理に日取りに縛られるより、準備が整った日を選ぼうって決めました」
「前に婚姻届の相談に来たときのリストのおかげです」サクラが付け加えた。「あのとき作った手続きリストで、提出後に回る窓口と必要書類を全部整理できました。銀行も、免許証も、マイナンバーカードも、いつ何をするか決めています。」
「サクラの名字は、結局どうすることにしたんだ」
「はい。二人で話して、私がヒロくんの名字を名乗ることにしました」
区役所の窓口に用紙を出す二人の姿を、俺は少し離れたところから見ていた。特別なセレモニーがあるわけでもない。休日の受付窓口で、職員が淡々と用紙を受け取り、記載内容を確認していく。それだけの、驚くほど地味な手続きだった。
だが、ヒロの手が、少しだけ震えていた。

■ 紙一枚の続き
「終わった……」
区役所を出たところで、ヒロが小さく呟いた。
「拍子抜けするくらい、あっさりでした」とサクラ。「でも、なんでだろう。紙を出しただけなのに、世界が変わった気がします」
「前に来たとき、言ってたな。『紙一枚の後ろに、たくさんの次の紙が並んでる』って」
「はい。でも、その『次の紙』を一枚ずつ片付けてきたから、今日、こんなに落ち着いて出せたんだと思います」
サクラが、少し照れくさそうに言った。
「実感、これから少しずつ来るのかもしれないです。免許証の名前が変わったときとか、新しい名字で初めて呼ばれるときとか」

■ 事務所への報告
二人は、その足で事務所に戻ってきた。ルリが、いつものように棚から降りてきて、サクラの足元にすり寄った。
「なんかルリ、今日はやけに愛想いいな」
「わかるんだよきっと、特別な日だって」
俺は冷蔵庫からジュースを出し、グラスに四人分注いだ。乾杯というほど大袈裟なものではない、ささやかな一杯だった。
「思えば、お前ら二人が最初に来たときは、別々だったな。サクラは『大丈夫です』しか言えなかったし、ヒロは100項目のリストを抱えてた」
「よく覚えてますね」とヒロ。
「忘れるわけがない。あれから、何回ここに来た?」
二人は顔を見合わせ、笑った。
「数えてないです。でも、たぶん、事務所の一番のお得意様だと思います」
「そういえば、式はどうするんだ」
俺はグラスを置いて聞いた。二人は顔を見合わせた。
「散々悩んだんですけど……フォトウェディングにしようと思います」とヒロ。「挙式も披露宴もなしで、写真だけ、きちんと残す感じで」
「あの380万円の見積もり、忘れられなくて」サクラが苦笑した。「大きな会場も、ドレスも、もちろん憧れはあったんです。でも、私たちが本当に欲しかったのは、豪華な一日じゃなくて、ちゃんと形に残る記録だったんだなって」
「披露宴がない分、親族への紹介はどうするんだ」
「そこは別で考えてます」とヒロ。「両家の顔合わせ食事会を、近いうちに。結納みたいに堅苦しくなく、身内だけでご飯を食べる感じで」
「予算も、写真代と食事会だけなら、二人で貯めた自己負担額の中で十分収まりそうで」
俺は、少しだけ頷いた。
「震えていた数字が、ちゃんと二人サイズに収まったわけだ」
「はい」とサクラ。「あのとき教えてもらった『分解して考える』が、ここでも効きました」

■ ケイイチロウの言葉
帰り際、ケイイチロウが二人を呼び止めた。
「一つだけ言っておく」
二人が振り返る。
「夫婦とは、答えを揃えることではない。問いを、一緒に持ち続けることだ。今日出した紙は、その始まりの合図に過ぎない。」
サクラが、少し目を潤ませた。ヒロが、その肩にそっと手を置いた。
「ありがとうございます、所長」
「祝いの言葉は柄じゃない。だが——おめでとう」
珍しく、ケイイチロウの口元が緩んでいた。

■ エピローグ:これから
二人が帰ったあと、事務所には静かな時間が流れていた。
窓の外は、十月の澄んだ夕方だった。
(我慢することしか知らなかった依頼人と、考えすぎて動けなかった依頼人が、今日、それぞれの言葉で「これから」を選び取った。……この仕事、たまにこういう報酬がある)
俺は、二人の依頼票のファイルを閉じた。一番古い記録の日付が、やけに懐かしかった。

この話は、実用解説よりもシリーズ本編のストーリーを中心にした回です。サクラとヒロの、第37話から続く結婚準備シリーズの区切りとなる回です。
🔗 この話の前後・関連
- 前の話:第46話「フリーランスコミュニティで騙されかけた問題」
- 結婚準備の始まり:第37話「結婚式の見積もりを計算したら震えた問題」
- 二人の始まり:第29話「付き合う前に確認しておけばよかった問題」
- 📚 まとめ:結婚までにやることリスト(サクラとヒロの交際〜入籍)
- 婚姻届の準備:第39話「婚姻届を出す前に何も準備してなかった問題」